おわりに 08.11.30


結願寺から歩いて30分、再び、「満願の湯」に浸かった。
今回は、町の温泉施設。
民間の立派な温泉の隣にこうした公共温泉があるのが不思議だ。
不要な施設ではないか。

「はじめに」でも書いたように、今度の札所巡りは、この「満願の湯」で思いついたものだった。
前回の入浴は物見遊山だったが、今回は、巡礼成就、文字通りの満願達成で気分も晴れやかに、巡礼の疲れを癒すことが出来るはずだった。
だが、気分は晴れない。
札所巡りを始めた時、まとわりついていた悩みが、相変わらず頭を離れなかった。

2007年1月、食道ガンと診断され、2ヶ月ほど入院した。
幸い初期の発見で、治療は効を奏し、退院することができた。
退院後、再発の早期発見を期し、3ヶ月毎に各種検査を受けてきたが、08年9月の内視鏡検査で食道上部に腫瘍が見つかった。
巡礼に出る1ヶ月前のことである。









腫瘍を切除すると声帯を失うことになるというのが担当外科医の見立てだった。
それを防ぐには内視鏡手術が不可欠だったが、腫瘍の根元は食道壁にあり、削り取ると食道に穴があくので内視鏡手術もできないということだった。
腫瘍はまるでイソギンチャクのようだった。
先が割れてヒラヒラと素人目にも分かる大きなものだった。

しかし、手術は行われなかった。
生検の結果、腫瘍はマイナス反応、悪性腫瘍ではないと結論されたからである。
慎重を期して、再度、生検が行われたが、結果は変わらなかった。
切除を当然の手段と考える外科医も、悪性でない腫瘍を手術しようとはしない。
「3ヶ月、様子を見よう。悪性ならば即手術。悪性でなくても腫瘍が成長しているならば、なんらかの処置をせざるを得ない」というのが医師の結論だった。
札所巡りは、その3ヶ月の間のことであった。
巡礼を終えたのが11月30日。
次の内視鏡検査は5日後の12月5日に予定されていた。
「満願の湯」に入っても、鬱々として気分が晴れないのは、こうした事情によるものだった。

12月5日の内視鏡検査の結果は、4日後、判明することになっていた。
恐る恐る病院に行った。
患者の呼び出しコールが鳴って、医師の部屋のドアをノックする時、緊張で体がこわばっていたのを覚えている。
いすに座る。
内視鏡検査の写真をスクロールしながら見るばかりで、医師はしばらくしゃべらない。
そして、顔をモニターに向けたまま一言。
「不思議だなあ。なくなったんですよ、あの腫瘍が」。
鬱々としていた心のもやもやが、一気にすっ飛んだ。
宝くじに当たっても、これほど嬉しくはないだろう。
無くなった理由を尋ねたが、分からないとの返事。
突如、「霊験」の二文字が頭に浮かんだ。
「これは観音さまのご利益だ」。
そう、直感した。










我々は、西洋近代文明の恩恵に浴している。
思考のベースは合理主義にある。
実証的でないものは、だから、曖昧なものとして排除しがちである。
「秩父三十四所」の各札所には、必ず、大絵馬が掲げられている。
内容は縁起でもあり、霊験でもあるのだが、僕はこのブログで紹介するのを意識的に避けてきた。
あまりに荒唐無稽だからである。
しかし、奈良時代や平安時代の日本人は違った。
『日本霊異記』や『今昔物語』の仏教説話集の中核をなすのは、霊験話であり、人々はこれをまともな話として受け止めてきた。
江戸時代でも大差はない。
江戸出開帳で江戸町民を惹き付けたのは、札所の霊験話であった。
当時、人生は50年だった。
病に「不治の」という形容詞がついて当たり前だった。
それが今や、ガンも不治の病でなくなって、人生90年になろうとしている。
科学技術の圧倒的な成果の上に安住する現代人に対して、自力で生きていかなければならない彼らのなんと非力であったことか。
等身大の人間の人為には限界がある。
限界を超えた圧倒的な部分を、彼らは神仏の加護に委ねざるを得なかった。
霊験は、荒唐無稽ではなく、切実な希求の結果だったのである。

翻って、我が腫瘍について、札所巡りをしながら、僕は観音さまのご加護を希求しただろうか。
納札(おさめふだ)に「為 健康回復」とか「為 病気治癒」と記入して、奉納はした。
合掌しながら「腫瘍が悪性にならないように」と祈願もした。
しかし、その願いが叶えられるとは、信じていなかったことも確かである。
不信心な僕に、では、何故、霊験は起きたのだろうか。
この長い文章のこれがポイントなのだが、観音さまの懐の広さを、僕は感じざるを得ない。
観音霊場を巡礼してなんとなく分かったことは、観音信仰には「しばり」がないということである。
こうしなければならない、ということがない。
何番から回ろうとかまわない。
今年3所、来年5所でもいい。
特別な修行はいらない。
信心のあるなしを問わない。
ただ、観音さまの前で手を合わせればいい。
そうすれば慈悲深い観音さまは、救いの手を差し伸べてくれる。
「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えさえすれば、往生できるとする法然や親鸞、一遍と相通ずるものが、ここにはある。
観音さまは、大らかなのである。
寛大、寛容なのである。
観音さまの寛容さに思いをいたした時があった。
札所巡りで秩父の山中を歩いている時のことである。
秩父山中には、古来からの神々がおわした。
そこに修験者たちが観音信仰をもたらした。
融通無碍な伝来の山の神々と寛容で大らかな観音は、衝突することなく融和し、秩父の山の中で自然と一体となって、人々に崇められてきた。
その聖なる自然を感じ取ることが出来た。
今回の札所巡りの、これが最大の収穫である。
歩いて回ってよかったと、今、心から思っている。

観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心

南無大慈大悲観世音菩薩

第三十四番 日沢山 水潜寺 (曹洞宗) 08.11.30


結願寺である「水潜寺」には、穏やかな空気が流れている。
巡礼満願を達成した巡礼者の安堵の気持ちが漂っているからだろうか。
秩父札所の結願寺であるだけではなく、西国、坂東を含め、日本百観音霊場の結願寺であることは、いろんな所に現れている。
本尊の千手観音の脇侍には、西国を意味する西方浄土の阿弥陀如来と坂東を意味する東方浄瑠璃世界の薬師如来が座し、この三尊を拝めば、百観世音巡礼の功徳が得られるという。
本堂前の「百観音御砂の足型」の上に立って合掌しても同様の功徳がある。








観音堂の隣の讃仏堂は、納経所を兼ねているが、この入口脇には、結願した巡礼者の金剛杖が奉納されている。
他の札所では見られない結願寺ならではの光景と言えよう。


その納経所でいただいた「水潜寺」の御朱印。
「日本百番結願霊場」の印が押してある。








その名も結願堂の前には、「百観音御砂の足型」があり、ここに立って回す「百観音功徳車」もある。


観音堂の奥、昼なお暗い崖地には、「水潜寺」の寺号の起こりである「水潜りの岩屋」がある。
今は立ち入り禁止で入れないが、かつては満願を達した巡礼者たちは、水が湧く狭い洞窟を潜り抜けることで、再生の儀礼をなし、心身ともに清浄となって俗世に戻ったという。








岩屋から湧き出る清水は、観音堂脇に樋を伝わって流れ込んでいる。
「水くぐりの長命水」と呼ばれ、口に含むとその清冽さが体に行き渡る。

「結願や五体に沁みる秋の水」 たける



参道に並ぶ三十三観音は、珍しい。
結願寺ならではの企画と言えようか。
あまりお目にかかることがない「揚柳観音」、「龍頭観音」、「白衣観音」などの三十三の観音様を拝むことが出来る。
秩父札所は、三十四所だが、普通、観音霊場は三十三所である。
三十三所の三十三観音。
この「三十三」という数字は、衆生救済のために相手に応じて、観世音菩薩は三十三通りの姿に変身すると『観音経』に説かれていることに因る。
あらゆる人の悩みを救済するためにということであるから、「三十三」は「無数の」とか「無限の」という意味だと解釈したほうがいいかもしれない。
それは、「水潜寺」の本尊、千手観音の「千手」が無数を意味するのと同じことである。
観音さまは、無数の人の願いと悩みを多面多臂の姿に変身して聞き入れ解決してくれる、スーパーマンならぬ「オールマイティスーパー菩薩」なのである。


「蜘蛛の囲や朝日射しきて大輪に」 中村汀女

西武秩父駅ー杖立峠ー34・水潜寺 08.11.30










2008年11月30日、「秩父札所巡り」の今日が最終日。
8日目となる。
西武秩父駅前の停留所から「吉田元気村行き」のバスに乗り、9時5分出発。
30分ほどして「馬頭尊前」停留所で下車。
看板に従って、バスとは反対方向の東へと歩き出す。









10分ほど歩くと「水抜」へ。
かつては皆野駅から吉田元気村行きのバスがここを通っていたが、廃線となった。
ここを左折。
しばらくゆるやかな上りの舗装道路を進む。
民家も見えず、静かな道である。
家々が見え始めた所が頼母沢集落。
大小の岩がごろごろむき出しになっていて、坂の傾斜も急にきつくなる。









家と後背の山との間が農地になっている。
写真を拡大してやっと見えるのだが、男がひとりくわを振るっている。
静かな山間の里に甲高い犬の声。
まるで飛び掛らんばかりの勢いで吠えている。
人が通ることがほとんどないから、この時とばかりに吠えるようだった。









集落を見下ろす一番上の家は廃屋だった。
道を挟んで立つ石仏には、草がまといつき荒涼とした風景である。









廃屋の先、300メートルほどに「札所三十四番道」の石塔。
そこを右折すると杖立峠への山道となる。
一人の男が早足で駆け抜けて言った。
疾風のように走り去った人とは、満願の湯で会った。
聞いたらたった4日間で全コースを歩き回ったのだという。
今日は33番をお参りして、34番へ向かったそうだから、3日間で1番から32番まで歩きとおしたことになる。
とても人間業とは思えない。









11月も今日で終り。
山は秋というよりも冬の様相になりつつある。
こうした落ち葉のある山道ばかりならいいが、すぐに杉林になってしまうのはこの山も例外ではない。
御幣が下がっている。
何か結界を示すのだろうか。
明治時代の日本人ならば、常識であったこうした宗教的行為の意味を現代に生きる我々は知ることが少ない。
そうした社会を憂う前に自分の無知を嘲うべきは当然であるが。


杖立峠に到着。
ここも見晴らしが全くきかない。
この峠越えが順礼初日だったらアゴを出したことだろうが、最終日だから、慣れたもの、そんなに苦にせず登ることが出来た。
振り返ってみると、きつい思いをしたのは「第二十三番音楽寺から第二十四番法泉寺への沢越え」、「バス停から第三十一番観音院までの往復と石段」、「第三十二番法性寺奥の院への上り道」と「法性寺から小鹿野への大日峠越え」などか。本当は「第三十番法雲寺から第三十一番観音院まで18キロの歩き」が最も大変なんだろうが、バスに乗ったので味あわないで終った。
今日で結願するが、一番苦しい部分をパスしたことで画竜点睛を欠く思いがしないでもない。
ここ札立峠の由来については、「昔、大旱魃の時、旅の僧の『雨を祈らば観音を信ぜよ』との教えにより、『樹甘露法雨』の札を立てたから」だと環境庁の看板に書いてある。

峠からの下りは、大日峠と同じように石がごろごろ転がる沢下り。
雨が降れば川となるところを足を挫かないように用心しながら下りてゆく。
まったく陽が差さないから暗い。
あまり気持ちいいコースではない。









新しい石仏がある。近寄ってみたら広げた袂に「おつかれさま 水潜寺はすぐそこ」と書かれている。
確かに木々を通してお寺の屋根が見えている。
西国から板東を回り、秩父を巡礼し終えて、100カ所目の結願寺の本堂を木の間隠れに目にした巡礼者たちの感慨はいかばかりであったことか。
この光景は、終生、脳裏に焼き付いていたはずである。

第三十三番 延命山 菊水寺 (曹洞宗) 08.11.22









道路の右手に駐車場がある。
看板には「札所33番菊水寺」の文字が。
しかし、反対側の寺への参道の入り口の石碑には「長福寺」とある。
近づいてよく見ると石碑の脇に小さく「延命山菊水寺」と彫ってあるが、まことに紛らわしい。
もともと「菊水寺」は、約600メートル離れた山中にあり「小坂下観音」と呼ばれていた。
その別当としての「長福寺」が「小坂下観音」の管理権を握り、札所観音を本堂の本尊として祀り、それ以来、「長福寺」と「札所三十三番菊水寺」の二枚看板を掲げるようになったとのことである。








観音堂は、築190年の堂々たる構え。
堂内は土間で、土間に立ったまま参拝する。
秩父札所で、土間はここだけである。
納経所も堂内にある。



境内には何体もの石仏があるが、本堂手前のこの観音さまがいい。
ややうつむき加減に合掌する穏やかな姿に晩秋の光が柔らかく当たって、ほのぼのとした暖かい気分になる。

「合掌の石の観音秋夕日」 たける



帰りは、バス停「泉田」まで同じ道を歩いて戻り、そこから「西武秩父駅」に向かう。
連休中とあって、「泉田」から乗り込んだ乗客は20人くらい。
ほとんどが巡礼者だった。
座席に座れず、立つ人もいるバスを初めて秩父で体験した。


バスを待つ間、我々のガイドブック『秩父三十四カ所を歩く』を持っている男の二人連れがいたので、声をかけた。
本の指示通りに「第三十番法雲寺」から駒木野まで歩いたということだった。
時間に追われて大変だったらしい。
でもそれ以外は、正確、的確なガイドだったと『秩父三十四カ所を歩く』は彼らにも好評だった。
巡礼7日目を終了。残すは、結願寺のみとなった。

32.法性寺ー大日峠ー33・菊水寺 08.11.22










「第三十二番法性寺」から「第三十三番菊水寺」へは、徒歩で大日峠を越えて小鹿野の町へ出る。
そこからバスで泉田まで移動、バス停から歩いて「菊水寺」まで行くことになる。
「法性寺」を出て、柿ノ久保集落を山に向かって歩く。
豊かそうな農家が点在するが、空き家らしき家もある。
家の敷地に祠がある。
お盆に先祖の霊を迎える「おつか」だろうか。




集落のはずれに「大日峠を経て小判沢地区へ1.9キロ」の道標。
「注意 熊出没」の看板も。
ここで舗装道路とお別れ、大日峠へと歩を進める。









ふわふわと落ち葉を踏みしめて歩く感触は、晩秋の愉悦である。
が、いいことがあれば、悪いことがある。
大嫌いな杉林に入る。
杉が少なくなったらと思うと竹。
手入れをしていない竹林は、杉林よりも無惨だ。
黙々と下を向いて歩いて、やっと大日峠に到着。

















峠と言っても、木々に遮られて、眺望はまったくきかない。
大日如来像とお地蔵さんがある。
大日如来像があったから大日峠と呼ばれるようになったのか、大日峠だから大日如来像を据えたのか。
多分、前者だと思うが。
なぜか、大日如来にだけ屋根が付けられていた。

















小判沢への下りは、沢下り。
何度も沢川を渡る。
写真のように橋があればいいが、ない場所が多いから、雨の後は大変だろう。
木が生い茂っている感じはないが、太陽の光はほとんど届かず、午前11時だというのに、夕方みたいだ。










沢を下って、小判沢に着く。
道路脇に祠がある。
何だろうと覗いたら「こんせい宮」だった。
金精さま(男根)をご神体とするお宮である。
横瀬の歴史民俗博物館で展示物は見たが、こうして今もお宮として機能しているのを見るのは初めて。
江戸巡礼古道を歩いて回った褒美だろうか。
うれしい。
甲州や信州育ちだとこうした石棒は珍しくないかもしれないが、僕の田舎には一切なかったから70歳にしての初体験である。
明治政府の淫祠邪教政策はこうした伝統的庶民信仰を根こそぎ消滅させてしまった。
淫祠などとよくも決め付けたものだ、と批判っぽくなる。









川の淀みを覆いつくす落ち葉。
一見、広場と見間違うほど。

「渋柿の滅法生りし愚かさよ」 松本たかし









バス停「小鹿野警察署前」に12時7分に到着。
12時5分、小鹿野町役場を出たバスに丁度間に合った。
泉田で降りる。
バス停後ろの「元六」という蕎麦屋で天ぷらそば1050円を食す。








蕎麦屋から東へ。
田んぼの中を5分ほど歩くと「菊水寺」と→の看板。
そこを右折する。
右手に見えてくるがけ崩れのようなところが「ようばけ」。
夕日にあたるはけ(崖)ということで「ようばけ」。
約1万5000万年前の第3紀層で、鮫やカニ、貝などの化石が出土するという。
麓に「おがの化石館」があるが、素通りしてしまった。








赤平川の奈倉橋を渡ると左に「妙見宮」。
この神社には仁王門があり、仁王がいる。
神仏混合時代の名残を残すもので、神社に仁王とは珍しい。









「三十一番観音院」への道でも出会ったが、ここにも巨大かぼちゃ。
家畜の飼料にでもするんだろうか。
すぐそばの豆畑の大豆は、収穫しないまま放置されているので、鞘から豆が地面に弾け落ちている。
もったいない。
何があったのだろうか。
信じられない光景である。