第一番 誦経山 四万部寺 (曹洞宗) 08.10.30














山門の正面に本堂の観音堂。
唐様入母屋造りで朱塗りの柱が映えている。
「秩父三十四所」の寺で文化財指定の文物は少ないが、この本堂は珍しく県により文化財として指定されている。
秩父といえば、何といっても秩父夜祭。

夜祭での絢爛豪華な屋台は有名だが、この本堂は、その屋台造りの名匠藤田徳佐衛門吉久によって、元禄10年(1697)建造された。
本堂正面上部には、極楽と地獄の彫刻がある。




本堂にブルーシートが敷かれ、スーツ姿の男たちが天井を見ている。
何事かと入ってみる。
天井の龍の絵の補修の段取りを決めているとかで、どさくさまぎれに写真をパチリ。
本来は撮影禁止のはずである。
ガイドブックにも載っていない。
元禄期の狩野派の作品だと説明があるだけだ。



お寺ならではの逸話もある。
境内に座す釈迦如来像は、明治の半ば、村人によって盗まれた。
行方は杳として知れなかったが、70年後の昭和54年、銀座の古美術店で売りに出されていることが分かった。

このニュースがテレビで放送されると全国から浄財が寄せられ、仏像は500万円で無事買い戻された。
観音様の御利益あらたかで、帰ってきたお釈迦様ということになる。

「秩父三十四所」のそれぞれの境内から武甲山が見えるだろうか。
答えは、NO。
しかし、ここ「第一番四万部寺」からは、やや遠目ながら良く見える。
いつも武甲山を確認しながら、歩いていきたいと思う。

ところで、突然、場所が変わってしまうが、ここは熊谷市の交差点。
江戸時代、江戸から秩父への道は、4コースあった。
東から熊谷通り(長瀞、釜伏峠経由)、
川越通り(小川、粥新田峠経由)、吾野通り(旧正丸峠経由)、名栗通り(妻坂峠、山伏峠経由)。
盆地の秩父へは、いずれのコースも峠を越えなくてはならない。
こうした道は「ちちぶ道」と呼ばれていた。
その道標が熊谷にあると聞いて行ってみた。
今は、国道17号となっている「中仙道」から「秩父往還」への分岐点である「石原交差点」にあるはずなのだが、見当たらない。
写真は、右が「中仙道」。
手前が東京方向。
左に分岐しているのが、「秩父往還」だから、この付近に石碑があってもいいのだが、見当たらない。
近くに熊谷警察があったので、寄って尋ねてみた。
だが、「住所が分からなければ教えようがない」と言うのである。
「石原という中仙道から秩父へ分岐している地点にある、県の文化財に指定されている石碑」だと説明しても、「そういう質問には答えられない。住所を言え」と繰り返すばかり。
余りの対応のひどさに「最低の警察だ」と毒づいて署を出る。間違っても「市民の警察」だなどと標榜しないでもらいたい。


もう一度、石原交差点に戻る。
運転しながら交差点脇の公園に眼をやると、石碑らしいものが3本立っているのが見えた。
車を止めて近寄ってみる。
それが探していた「ちちぶ道」の道標だった。
「ちちぶ道」の下に、「志まぶへ十一り」と2行の分かち書き、更に土台には「石原村」と横書きで刻されている。
建立されたのは、明和3年(1766)。
交差点に立っていたものを平成16年公園内に移動、保存したものらしい。



熊谷から「ちちぶ道」の紹介を始めたのに、こんなことを言うのはおかしいが、
江戸から秩父への巡礼道として最も人通りの多かったのは「川越通り」だった。
粥新田峠を下りて行くこのコースは、札所一番に入りやすく、「順打ち」に最も適していた。
江戸時代、数多くの札所案内が発刊されているが、いずれもこのコースを紹介していたことも理由として挙げられる。
川越から小川を目指す。
小川から東秩父村へ入ると安戸宿の案内表示がある。
右折し、安戸橋を渡って集落へ入ってゆく。









いかにも宿場らしい雰囲気のある町並み。
人通りのないこんなところにと驚くほど大きな、いかにも由緒ありそうな和菓子屋が店を構えている。
写真右は、かつて巡礼宿を営んでいたという「大久根家」。
今は普通の民家のようだった。


東秩父中学校の反対側の会社の地所に立つ看板が面白い。
「小川より安戸、それより坂本、粥新田峠にいたって難所なり。これより山のはじめなり」とある。
脇に小さく「『東海道中膝栗毛』の作者十返舎一九の『秩父札所』の書による」と説明がついている。
『秩父札所』は、『東海道中膝栗毛』で一躍人気作家になった十返舎一九が著した『諸国道中金草鞋』24編のうちの一つ。
『諸国道中金草鞋』は諸国の霊場巡りの道中記だが、それは当時の旅には通行手形が必要で、その手形を得るには寺社参詣を名目とすると得やすかったからである。
「これより山のはじめなり」に続く文はこうなっている。
「すべて秩父道中ハ、食物いたって不自由の所あれバ、唐辛子味噌、鰹節などハ用意してもつべきなり」。
江戸時代、街道筋の宿場や茶店は結構多かったが、中仙道から分岐した地方道の秩父道は、宿が少なく、野宿をする者も少なくなかった。
十返舎一九は、巡礼の商人が「コレコレ、長松、昨夜松原に野宿したことを人にハいふな、外聞が悪いから」と丁稚に注意するシーンを書いている。
宿に泊まっても、安宿では「秩父の観音さまハよいが、宿屋の夜着蒲団にいる千手観音さまにハこまりはてる」ということになる。
千手観音とはシラミのことだ。
十返舎一九の『秩父札所』は34札所を順番に書いて、当時の旅の様子がうかがえて興味深いが、実は作者が現地を歩いて書いたものではない。
人気作家だから現地取材に行く時間がなかったのだろう。
克明な描写は、すべて秩父巡礼者に聞き、資料を漁った、その成果であると言われている。









村役場を左に見て、まもなく落合橋にさしかかる。
橋を渡って西の方角へ。
右手にいつも槻川が流れている。
道路左に「皆谷地蔵堂」が見えたら、そこが粥新田峠への道の分岐点。
橋の名前も「かゆにた橋」である。ここからは坂道を登る一方。
途切れることなく農家がポツリポツリと点在している。









けもの道のような石ころだ
らけの小道は、江戸古道。
県道の反対側は深い渓谷。こういう急斜面にへばりつくように、江戸古道は走っている。








二股を秩父・皆野方向へ。
牧場のポピー畑が美しい。
その美しさに惹かれてポヒー畑の方に下りて行ってはいけない。
粥新田峠へ行くには、そのまま直進すべし。









粥新田峠は視界ゼロでとても峠の感じがしない。
「粥新田地蔵尊」の石碑があるからそれと分かるだけである。
ここでは、江戸巡礼古道は、そのままハイキングコースとなっているようだった。



粥新田峠から林道を峯集落へと降りてゆく。
家は一軒もない。
行き交う車もなく、見通しもきかず、暗くて淋しい山道だ。
途中、「江戸巡礼古道」の標識があるが、草に覆われてどこが道なのか全く分からない。
誰も通る人がいないからだろう、人の足跡がまったくない。
実際、こんな所を歩いて一番札所へ向かう人がいるのだろうか。








粥新田峠から下りて峯集落にある古い道標。
「右 山道 左 粥新田峠」と刻られている。
今では「右 山道 左 山道」にした方がよさそうだ。
峯集落までくれば、秩父は近い。
熊谷からのトレースもここで終了とする。

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