第三十一番 鷲窟山 観音院 (曹洞宗) 08.11.21










晩秋の陽差しは強く、日向は明るすぎ、日陰は暗すぎて、写真に撮るのが難しい。
山陰になって見えにくいが、川の向こうに仁王門。
仁王門を通って急坂を300段近く上がった所に観音堂がある。
仁王は、めずらしいことに石像だ。
重さ2400キロ。石仏としては日本一。
石仏であるのは、「第三十一番観音院」の裏山が、石材の産出場所だからである。
札所第四番の「金昌寺」の石仏の石材は大半がここのものである。
ひび割れが少なく、加工しやすいのが特徴なのだそうだ。

今回の順礼でどれだけ石段を上ったことか。
岩井堂への石段、法泉寺前の石段、どれも忘れがたい階段だったが、この「観音院」の段々も急な上、段数も多く手ごわい存在だ。
しかし、思ったより容易に上れたような気がする。
石段の両側に点在する句碑を読みながら上がるから、気がそちらにとられてしんどさを忘れてしまうようなのである。







これらの句碑は奉納句として昭和58年に建てられた。
献句したのは、埼玉県俳句協会のお歴々ということである。
選者は、埼玉句界の第一人者と言われる岡田壮三氏。
昭和48年全国俳句大会で最高位の栄誉に輝いた彼の句が、通ってきたばかりの「水子地蔵寺」に句碑としてある。
「藪椿水子地蔵のみな同じ」。








石段を上り終えると正面に本堂。
右手に鐘楼と納経所。
観音堂は大岸壁に覆われ、左には落差30mの滝がある。
この日は、滝の水は落ちていなかった。
険しい山岳、無数の石仏、30mの滝とくれば、修験道の行場を思い浮かべるのは自然だろう。
秩父札所の草創者は、ほとんどが修験者だった。
それが次々と禅宗寺院の手に移って行くのだが、ここ「観音堂」だけは、明治5年の修験道廃止令まで行者が護り通した霊場であった。

修験者の行場であったことは、奥の院へ向かうとよく分かる。
「観音院」の奥の院は、東と西、ふたつある。
写真正面に見えるのは西奥の院への階段だが、ここへは、現在立ち入りが禁止されている。
観音堂と納経所の間の道を登って東奥の院へ。









路傍にはいたるところに石仏がある。
いかにも石材の産出現場らしい。
石仏は全部で190体。
磨崖仏は10万8000体あるといわれている。








神仏習合の修験行場だから祠もある。
崖の先端に思いがけない大きさの石仏が座していたりする。









右手は深い谷底。
道は落ち葉に埋もれて、歩くとカサコソと音がする。
晩秋の気配が濃い。
岸壁の窪みには必ず石仏がある。
それぞれの石仏には寄進者のそれぞれの想いがあり、託された願いがあった。
誰の、どんな思いだったのだろうか。

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