「音楽寺」を参拝し終えたら12時半。
寺の下の蕎麦屋「不老庵」に入る。
新そばは、まずまずの仕上がりか。
もっと香りが立つといい。
「不老庵」を出る。
絶景に、思わず記念写真。
「第二十三番音楽寺」から「第二十四番法泉寺」への道が巡礼中最大の難所だった。
その大半は「江戸巡礼古道」で、今はほとんど利用されない山道。
通行中行きかう人は皆無だった。
沢に下りて川を渡って上る。
そして、叉下る。
舗装道路に出たと思うとすぐ林の中へ分岐して入り込む。
沢を上がるとそこが農家の裏手で、畑を横切ると叉山道になる。
どこをどう歩いているのかさっぱり分からない。
写真は撮ったがそれがどこなのか判断できない。
幸い「第二十三番音楽寺」の駐車場に「江戸巡礼古道」の看板があった。
上の写真はその一部だが、これを参考に写真を説明してゆく。
地図で「駐車場の中を通る」と表示されている所。
生垣に沿っての柵の向こうが「江戸巡礼古道」。
ここがスタート地点である。
杉林でない落葉樹の林は明るい。
秋も深まって風が吹くと落ち葉がカサカサと音を立てて落ちる。
くるぶしほどもある落ち葉を掻き分けながら進む。
落ち葉はミミズやバクテリアの働きで分解され、土に還り、また木々を育てる。
靴底にゴツゴツ感じるのはドングリの実だ。
今日は新しい靴を履いてきた。
昨日買ったばかりのアメリカ製品。
まさかこんな落ち葉道を歩くとは、アメリカ生まれの靴も驚いたことだろう。
突然整備された一角に出る。
ここは広大な「秩父ミューズパーク」の最北端なのだ。
真新しい道標。
こうした道標がなければどこを歩いていいのか全く分からない。
道と言われれば道かな、という位の道なのだ。
最初の橋。
下るということは川があることであり、渡ればまた上りが始まる。
その繰り返しなのだ。
かつてシイタケを栽培し、今は放置されているクヌギの原木。
農家が近いのだろうと思っていたら、ひょいとある家のわき道に出た。
片側は石積みの塀。
ヘビの抜け殻が何本も引っかかっている。
倒木が道を塞いでいる。
そういう箇所が何カ所もある。
人が通らないからだろう。
片付けようとした跡もない。
暗い杉林の中をかなり歩いたような気がする。
眼下に舗装道路が見えてきた。
右手には「二十二夜塔」の石碑。
「二十三夜」が男たちの月待ち行事であるのに対して「二十二夜」は女たちの行事だった。
必然、安産や子育てを祈願して女たちの講によって建てられたものが多い。
踏んだ感触で落ち葉の種類が違うことが感じ取れる。
ゴワゴワした葉っぱは、柿の葉だった。
良く見ると細かく緑色の斑点が散りばめられてまるで美術作品のようだ。
柿の木があるということは、農家があるということ。
舗装道路から標識通りに左折。
右手に農家を見ながら、竹やぶの小道を分け入って行く。
手入れをしてない竹林はとても暗い。
パッと視界が広がったと思ったら、耕作放棄された農地の向こうに秩父市街と武甲山。
なぜか武甲山が見えるとホッとする。
「江戸巡礼古道 長尾根みち」という木札がぶら下がっている。
柿の木があるところを見ると農地跡でもあるが、屋敷跡でもあるような感じがする。
しかし、ここで農業をやっていたとなると往来までの行き来が大変だったろうと思う。
太平洋戦争後の数年間、極度の食糧不足のなか各地で開拓が奨励された。
こうした僻地での農業跡地は、その頃の時勢を反映しているのだろうか。
2008年は、12年ぶりの総開帳の年だった。
それを記念して江戸古道の整備が行われたと耳にした。
新しいロープが崖がわに引かれている。
そのロープを掴んでも、腰を落として降りないと危険な箇所がいくつもある。
巡礼をしているという気にさせる箇所でもある。
ここはどうやら「念仏坂」の手前らしい。
昔、巡礼者たちはこの難所を念仏を唱えながら渡りきったと言われている。
音楽寺駐車場の看板にはこう書いてある。
「札所20番から25番にいたる荒川西岸江戸巡礼古道は、ほとんどが車が通らない山里の巡礼道である。野面を横切り、谷を渡る道で所々に江戸時代の石碑、道標が残り、現代社会からかけ離れた気分を味わうことが出来る。特に江戸時代の雰囲気を味わえるのが、22番童子堂跡、直坂(すぐさか)十三地蔵付近、桜久保沢の念仏坂付近、永源寺跡である」。
念仏坂をエッチラオッチラ上がる。
上れば上るほど明るくなって来ると思ったら、突然、どこかの家の脇に出た。
向こうに舗装道路が見える。
振り返ると今来た道が、まるであの世への道のように黒い穴がポッカリ開いているのだった。
非日常から日常への転換、そうした感じを強く抱かせる江戸巡礼古道である。
ここで沢歩きは終り。
あとは舗装された道をのんびりと歩くだけだ。
舗装道路を歩いていたら、左手に数体の石仏が見える。
どうやら寺の門前のようだが、左折してもそれらしき建物は見られない。
案内板の地図では「永源寺」となっている。
廃寺となり、建物もなくなったのだろうか。
突き当たり正面は、地蔵坐像。
石碑は「馬頭観音」。
札所順路には文字塔が多い。
石仏を建てるほど豊かではないが、なんとしても供養等を建てたいという信仰心の厚い土地と解すべきか。
石仏の反対側の民家。
秩父の典型的な建物だ。
間口の広い総二階はどっしりと安定感がある。
二階は蚕室だと思うのだが、どうなのだろうか。
行く手にネコ。
逃げようとはしない。
その先が昼間だというのに黒い闇。
ネコはあたかも結界の門番のようだ。
差し詰め閻魔さまか。
道の両側は人の背丈より高い雑草が繁茂している。
減反し続けた農地か、離農者の跡地なのか。
耕作しなければ収入になるなどという愚策の挙句、食糧自給が取りざたされるのだから言うべき言葉がない。
農地を放置することと菩提寺を廃寺にし、墓地を放置することとには、共通の「危うさ」がある。
取り返しのつかない「劣化」がこの国を席巻しつつある。
前方にドスンと武甲山。
もう「第二十四番法泉寺」は近いはずたが、胸突く坂道に往生する。
どうしてこんな坂道を登るのかといぶかりつつ歩いたが、寺に着いて分かった。
「法泉寺」は門前の116段の石段が有名である。
その寺を背後から下り降りて行くように「江戸巡礼古道」は設定されているのだ。
石段を上るとすれば200段はありそうな、そんな急勾配の道をまず上がらなければならない。
参考にした『秩父三十四カ所を歩く』のガイドでは、「音楽寺」から「法泉寺」まで徒歩で50分と書いてあるが、これは舗装道路を歩いた場合。
我々は1時間20分かかった。
何度かの沢越えは、アスフアルトの道路ばかりを歩いている者にとって、しんどい時間だった。
しかし、歩いてよかったとつくづく思う。
車で回っても歩いて回っても満願は満願だが、歩かなければ見えないもの、分からないものがあることは確かで、それが何かは言葉にできないけれど、歩きながら撮り続けた写真の一枚一枚に、その効用が見て取れるように思う。
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