300段もの石段を上り終えて、ほっとして左を向くとそこに叉石段がある。
石段の先に浮かぶのが目的の観音堂、いわゆる岩井堂だ。
京都の清水寺を模したとかで、懸崖に舞台が突き出ている。
舞台に立つ。
石段で喘いだ労苦など吹き飛んでしまう素晴らしい眺めなのだ。
舞台の裏の岩窟に数体の石仏が座す。
もともと堂が出来る前は、こうした岩洞に修験者たちが観音像を祀っていたはずである。
つまりこうした岩窟の石仏は、札所のプリミティブな形なのである。
ところで、一番左は閻魔大王だが、閻魔大王に涎掛けをかけるのには、どういう意味があるのだろうか。
似つかわしくない事甚だしい。
この石仏の先に細い道が上に伸びている。
自然石を削った階段を上る。
もう合計何段上ったことになるのか。
へろへろになりながらよじ登って行くと、簡素な木組みの建物にぶつかった。
琴平神社が再建した修験堂だった。
修行に励む修験者の拠点だったのだろう。
険しい岩山の頂上の建物が、行者たちの活動にいかに相応しいことか。
彼らの修行の厳しさが眼に浮かぶようである。
「妙覚門」という扁額の下に小さな祠。
欄間から円形の板が三つ下がっている。
中央は「熊野式内大権現」、右は「秩父三四ケ所観世音菩薩」、そして左が「金比羅大権現」とある。
「熊野権現」と「秩父札所」の取り合わせが興味深い。
「秩父札所」は、15世紀になって、突然、出現したわけではない。
札所が開設されるべき要因が秩父にはあった。
それは山岳宗教としての修験道の活動である。
観音巡礼と関わるものとしてよく熊野権現が挙げられる。
西国札所の一番「那智山青岸渡寺」は熊野信仰の中心地である。
熊野三山は、本地垂迹説によると本宮の祭神が阿弥陀如来、新宮の祭神が薬師如来、そして那智宮のそれは千手観音である。
熊野信仰の中でも那智山は観音信仰の中心をなすものであった。
一方、秩父では、13世紀から武士の間に熊野信仰が浸透しはじめる。
熊野修験の道場には必ず観音堂があった。
散在していた山岳の観音堂を行者たちが拝んで回る。
やがてそれぞれの観音堂は、霊場として整備され、庶民も参拝し始めるようになり、札所が成立していったと
考えられている。
修験堂の奥に聖観音坐像。
正徳四年(1714)と刻印されている。
この岩井堂から「第二十七番大淵寺」への山道には関東三大観音と呼ばれる護国観音があるが、こうした山頂に立つ巨大鋳造仏像を見ると春日三球,照代の「地下鉄漫才」を思い出す。
「地下鉄の電車はどこから入れたの?それを考えると一晩中寝られないの」というお決まりの漫才だが、その逆の疑問、こんな重いものをどうして運び上げたのだろうかという疑問を抱くのだ。
重機もトラックもヘリコプターもない時代、歩いて上るだけでへばるあの急坂をどうして克服したのだろうか。
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