第四番 高谷山 金昌寺 (曹洞宗) 08.10.30



「第四番金昌寺」の山門はユニークだ。
大わらじがかかっている。
なぜ、わらじなのか、何冊かガイドブックを開いてみたが、書いてない。
お寺に電話して分かった。
仁王が履くわらじなんだそうだ。
真新しいのは、作ったばかりだから。
総開帳に合わせて新調したという。
わらじを作る職人もいなくなり、寺の関係者5,6人がああでもない、こうでもないと思案しながら、完成までにほぼ一月かかったそうである。
文化の伝承が困難な時代になって来ている。

秩父札所で最も参拝者が多いのは、多分、「第四番金昌寺」だろう。
参拝者という名の観光客なのだが、お目当ては、境内に林立する石仏群。
その数千三百余体とか。
昭和44年、西武鉄道が秩父まで乗り入れることになった際、秩父観光の目玉としてこの石仏群をPRしまくった。
「第四番金昌寺」は札所であることよりも、石仏の寺として認知され、有名になった。














現在は1300余体といわれる石仏群だが、最盛期には3000体を超えていた。
それが洪水などで流され、散逸して減少したと言われている。
そもそもは寛永元年(1624)、当時の住職が天災による死者の供養の為に1000体の石仏安置を発願したことがきっかけだった。
その願いはわずか7年で成就したが、その後も寄進者が相次ぎ、石仏は増えるばかりだった。













寄進者は、寺の山門前の石屋に希望の石仏を発注した。
「功徳石」と呼ばれる石材は、小鹿野町産出のモノ。
それを巡礼者が自ら運んできたと伝えられている。
昭和32年の「秩父観音霊場学術調査」によれば、羅漢245体、如来58体、菩薩393体となっている。
ほかに回向仏が30体。












この二つの回向仏には「紀刕様奥女中」と寄進者が刻まれている。
「紀刕」とは紀州のこと。
不義の子を孕んだ御大家の奥女中は、間引きせざるを得なかったわが子の安穏を祈願し、延命地蔵を寄進して回向した。
時代に抑圧された女性の哀しさがここにはある。

左の石像には、首がない。
代わりに石が乗せられている。
こうした首なし像が、境内には数多くある。
博打がご法度だった時代、
治外法権の寺の境内で博打をする者が絶えなかった。
負けた者は、石仏の首をもいで、
次の勝負の時持参し元に戻しておけば、
勝負に勝てるというジンクスがあった、
という説があるが本当かどうか。

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