第二十五番 岩谷山 久昌寺 (曹洞宗) 08.11.11


「第二十五番久昌寺」の門前は石標とお地蔵さんが左右に立ち、そのやや奥に仁王門がある。
石柱も地蔵立像も古びた年代もので落ち着いた雰囲気をかもし出している。








仁王門の扁額には「御手判寺」とある。
秩父札所開設の十三権者の一人性空上人が冥府に招かれ妙典一万部を誦したとき、その証として閻魔大王より石造りの手判(印鑑)と証文を賜った。
手判はここ「久昌寺」へ、証文は「西国第二十四番中山寺」へ納めたという。
御手判は、秩父青石の印判で、将棋の駒の形に雲上人が面と線とで刻されている。
江戸時代、手判は関所で見せる通行手形のことだった。
閻魔大王の手判を持っていれば、地獄の関所を通過できるということで、この手判ほしさに参詣人が絶えなかったと言われている。

仁王門をくぐる。
左手は岸壁。
右手は釣堀。
100メートルほど行くと左に古色蒼然としたお堂がある。
観音堂だ。
中は暗くて分からないが、本尊のほか木食の銘がある木像の地蔵立像があるという。
また、本尊の聖観音像は、行基作と言われている。
「秩父三十四所」には、行基が関係したと伝えられる仏像や建物がいくつかあるが、伝説にしても荒唐無稽すぎるようだ。
行基は、行基図といわれる日本地図の製作者だから関東まで足を運ばなかったと断言はできないのだろうが、近畿各地に残されている足跡を考えれば、そうした足跡の片鱗もない関東に来たとは思われない。
それなのに何故行基作の仏があったりするのか。
高僧、名僧である行基が関係することで、仏像の価値が上がると思うからに違いない。
行基は高僧であり、港を作り、橋を設け、貯水池を掘った。技術指導者としての名声も高い。
そうした事物が残る近畿地方では、事物に即して行基伝説が生き残ることは容易に推し量ることが出来る。
問題は彼の足跡のない地方に何故行基伝説が伝わっているのかということ。
新聞もテレビもない時代、情報は口移しでだけ伝わったはずである。
どのような人物像が噂として伝わったのだろうか。

境内にはいかにも年代モノの石仏がある。
首のない地蔵尊もある。
バックには大きな岩が見える。
「久昌寺」の山号が「岩谷山」であり、「長享の番付」では「十一番岩屋堂」として記録されているのは、この岩壁と無関係ではない。
草創期、修験者たちはこの岩窟に観音を安置し、祈念した。
その観音堂は「岩屋堂」と呼ばれ、「久昌寺」が別当として関わってきた、そうした歴史がこの岩壁には刻まれている。








観音堂から本堂を見ると、高い土手の上に幟が一列に並んでいる。
土手を上がる。ちょっとした池が広がっている。
想像もしなかっただけに、「へえ」と驚いてしまう。
本堂や庫裏が水に映っている。
御朱印をいただくには、そちらまで歩いてゆかなくてはならない。








納経所で「次のバスは何時だろう」と時刻表を見ていた。
時刻は2時20分。
なにせ久那橋を渡って戻らなければならない。
30分位は余裕が欲しい。
そわそわしていたら、納経所の人が「バス停なら橋の手前にありますよ。次の発車は2時40分です」と親切に教えてくれた。
西武バス「久那線」の終点が寺のすぐ近くにあった。
参考にした『秩父三十四カ所を歩く』では、久那橋の向こう側の浦山常盤橋停留所利用しか記載していない。本が出版されたのが平成2年、もしかしたら「久那線」はその後出来たバス路線なのかもしれない。
バスはいつものように我々二人だけを乗せて発車。
終点の西武秩父駅まで誰も乗って来なかった。
今度、「第二十五番久昌寺」を訪ねる時、このバスが走っていてほしいと思うが、どうなることやら。

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