2・真福寺ー3・常泉寺 08.10.30












車で回っている人たちは、寺を出たら右折して、もと来た道を下るが、我々は左へ。
しばらく行くと右手に細い道。
車は入れない。
ここから大槻川までの下り坂は、嫌いな杉林だが、写真のように陽が差し込んで圧迫感はない。










 

大槻川沿いに下流へ向かう。
道の右は斜面になっていて、農地のなかに農家が点在する秩父特有の光景が展開する。
こうした斜面農地は、水田ではなく畑である。
立っているだけでも、足のどちらかの膝を折ってバランスを取らなければならない。
斜面での農作業は想像以上にきつい。
斜面を耕すには、上の方に立って、下の土をかき上げるように鍬を入れなければならないからである。
下から上に鍬を振るえば、土は下の方に集まってしまう。
それでも養分が水と共に下に溜まるのは避けられない。
だから肥えた土地を農地にするため、家屋は斜面の上部に建てられるのが普通だ。














秩父特有の石垣の上に石仏が見える。
上って近寄ってみたら、お地蔵さんと馬頭観音の石碑であった。
どこからか運んできたものか、お地蔵さんの蓮華座を土台に固定するためのセメントの跡が新しい。
セメントがお地蔵さんの顔や衣に着いたままである。
隣の馬頭観世音は雄渾な文字。
二月大吉日と彫ってあるが、年は書いてない。
秩父では、馬頭観音碑が多い。
石仏と同じ位に文字碑も目に付く。
造立の趣旨の第一は牛馬の安全守護であり、第二は牛馬の供養だった。
造立には講を組織して、喜捨を募った。
目的の第三は養蚕守護である。
馬頭観音は蚕の守護神という民間信仰が強かった。
しかし、運搬の手段としてのトラックの台頭とともに、馬は激減し、同時に養蚕も廃れて、馬頭観音信仰も見られなくなった。
石仏と石碑として残るばかりである。

大槻川と分かれると右に山田電子。
その先を右折すると見えるどっしりした堂宇が、「第二番札所真福寺」の納経を扱う「光明寺」。
創建文保2年(1318)の名刹である。
納経帳は、札所番号と山号、寺号、ご詠歌が印刷してあり、朱印を押すページだけが白紙となっている。
いったん朱印を集めだすと白紙の部分が気になって仕方なくなるのは、人間の性だろうか。
「第2番真福寺」は遠い。
しかも無住で、その納経所は「光明寺」だと知ると、「真福寺」へ参拝せずに、直接、こちらへ来て、納経帳を差し出す輩が多いのだそうだ。
巡礼は「信仰」、「観光」、「健康」と言うが、今や、「信仰」の影が薄い。
信仰心に欠ける小生が批判するのは筋違いではあるが、つい、小言めくのは歳のせいか。



「光明寺」を出て、直進。道標にぶつかったら右、西の方向に向かって進む。
バス通りを過ぎると深い渓谷。
横瀬川だ。
まもなく11月、紅葉はもうすぐだ。


橋を渡って左折すると右側の民家の軒下に「宇賀神」の石碑が立っている。
Wikipediaによれば、「宇賀神」は日本書紀に出てくる宇迦之御魂神に源を持つ穀霊神であると書かれている。
豊作を祈願しての建立だったのだろうから、元は田畑の中にあったものだろう。
捨て去らないでこうして保存、保護するのは大事だが、建てる場所を考慮してくれれば、もっといい。
と、また、小言幸兵衛になってしまう。
「宇賀神」の先を右に回れば、田畑の向こうが「第三番常泉寺」である。

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