13・番慈眼寺ー今宮神社ー14・今宮坊 08.10.20


「第十三番慈眼寺」を出て、本町通りを左折。
静かな商店街の先に無線塔が立つ東京電力ビルが見える。
国道299号に面しているこのビルを左に見ながら国道を渡るとすぐ右に今宮公園。



今宮公園には「八大龍王」の赤い幟が林立している。
「八大龍王」は役の行者が水を司る神として祀ったもので、巡礼者はここで身を清めたのだという。

「第十四番今宮坊」はその昔、今は公園の奥に小さく佇む「今宮神社」の管理をする寺院として、この地にあった。
今、「今宮坊」は、この「今宮神社」から100メートル西にあるのだが、現代人に分かりづらいのは、江戸期まで「今宮神社」から今の「今宮坊」の場所までその全部が「長岳山正覚院金剛寺」という寺の敷地だったということ。
今は、間に家々が立て込んで、その広さが分かりにくくなっている。
現代人に分かりにくいもうひとつは、「長岳山正覚院金剛寺」が修験者の道場として、最盛時には40人もの山伏がここで修行していたことである。
明治維新直後の神仏分離、修験道禁止令で「長岳山正覚院金剛寺」は廃寺となり、社有地は民間に解放され、西のはずれにあった「第十四番今宮坊」だけが、そのまま残ることになった。
修験道禁止令以降、山伏はあっという間に姿を消した。
今や白装束で滝に打たれ、火渡りをする山伏行事がテレビニュースで流れるくらいで、日常生活で山伏を見ることはなくなった。
だから、「秩父札所三十四所」がいろいろな形で、山伏と関係があったと言われてもピンとこないのが現実である。

もともと秩父札所は、修験者が山中に祀った観音様を自分たちの心の拠り所として、村人たちが力を合わせて建てた観音堂がその始まりであった。
宗教的儀礼は修験者である山伏がこれを執り行った。
格式高く、敷居の高い寺院の僧侶より、山伏は村人たちに親しみやすい存在でもあった。
今、秩父札所の90パーセントは禅宗寺院の所轄になっているが、最初からそうだったわけではない。
村人が建て、修験者が管理運営していた札所観音堂を禅宗寺院が奪い取ることが相次いだ。
彼らは別当寺を名乗り、やがては寺の境内にお堂を引き込み、挙句の果て本尊を禅宗寺院の本堂にお祀りするようになる。
この一連の動きの歴史には、村人たちの怨嗟が込められていた。
しかし、村人たちよりも教養があり、その怨嗟を記録しえたはずの修験者とその子孫は声を発することなく、歴史の舞台から立ち消えてしまったのである。

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