第八番 清泰山 西善寺 (臨済宗) 08.11.05


山門をくぐるとおやっと思う。
石段を降りて境内に入るようになっているからだ。
こういうのは珍しい。
初めて見た。

圧巻は何といっても庭を覆いつくすコミネモミジ。
11月だというのに紅葉していなかったのが惜しまれた。
樹齢600年、枝回りは50メートルもある。
寺の名前は忘れても、あの大きなモミジの木のお寺と言えば、誰でも思い出す当寺のシンボル的存在。
新緑と紅葉の時に再訪したいものだ。
「秩父三十四所」の寺は禅宗が多い。
9割は、臨済宗か曹洞宗である。
しかし、開山以来禅宗であったかどうかは疑わしい。
ここ「8番西善寺」もその一つ。
現在は臨済宗で、本尊は十一面観音だが、本堂に安置されている阿弥陀三尊が開基されたときの本尊だったと言われている。
寺号の「西善寺」の西善は西方浄土を意味し、ご詠歌の「ただたのめまことの時は西善寺 きたりむかへん弥陀の三尊」は、天寿を迎えたその時には、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩が極楽浄土から迎えに来てくれるという浄土教の教えそのものである。


















鎌倉時代、一朝事あれば命をかけなければならない武士たちにとって、専心念仏によって極楽往生させてくれる浄土教の教えは、安心立命の拠り所であった。
彼らは仏縁で知り合った僧に帰依し、自らの領地に信仰の場としての菩提寺を創建する。
こうした動きは秩父の各地に見られた。
しかし、戦国時代を迎えて、兵乱が相次ぎ、情勢は変転極まりなかった。
檀家というものを持たず、ただ、大檀那に依存する仏寺にとって、大檀那の没落は、即廃寺を意味した。
廃寺のまま荒廃にまかせて、再興されなかった寺や堂宇は数限りない。
折りしも、禅宗両派が強力な教線を秩父に展開しつつあった。
それに活力を取り戻した真言宗の僧侶たちも加わり、荒廃した仏寺堂宇の再建、再興が相次いだ。
再興者は、当然のことだが、寺を自らの宗派に転宗する。
浄土宗だったものは禅宗に変えられた。
焼却されたかつての本尊もあったに違いない。
保存、維持されている「第八番西善寺」の旧本尊・阿弥陀三像は、稀有な例と言えるのかもしれない。



山門から武甲山は、手の届きそうな近さにある。
実際、この地は武甲山登山の登山口だった。
武甲山山中にあった「阿弥陀念仏堂」と「観音堂」が「西善寺」の開基につながっているという説があるが、こうして山を真近かにすると、それは至極当然のことのように、リアリティをもって感ずることができる。
















江戸時代、秩父への往還は、3ルートがあった。
北から、熊谷ルート、川越ルート、吾野ルート。
札所めぐりで江戸から来秩するには、まず正丸峠越えの吾野ルートが普通だった。
ところが、川越-定峰ルートが盛んになり、四万部寺が一番札所となった。
しかし、吾野ルートで入る人は、今もいる。
そうした巡礼者が、最初に参拝するのが「第八番西善寺」。
8-9-6-7と回る回り方は、「逆打ち」と呼ばれている。

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