28・橋立堂ー29・長泉院 08.11.11


山の斜面が畑になっていて、その一角に緑のネットが張ってある。
人がいたので聞いてみた。
猿害防止のネットだという。
猪の害だけなら、天井は張らないで済むが、猿はそうはいかない。
ネットを張っても注意を怠ると侵入されてめちゃめちゃに荒らされるとぼやいていた。
ここらあたりから三峰にかけて、こうした猿害防止ネットが多くみられるようになる。



浦山川にはキャンプ場が多い。夏は子どもたちの甲高い声が木魂するキャンプ場も今はひっそりとして、川を覆う紅葉が美しい。








二車線の道路を歩いていたら、「江戸巡礼古道」の道標が左の坂を上がるように指示している。
上がって行ったら、なんと集落が出現した。
諸というムラである。
こちらが昔からの道で、2車線道路はいわばバイパスなのだ。
集落の中央あたり民家の入り口の脇に「史跡 諸の高札場跡」という標識が立っている。
高札場は、江戸時代、幕府や藩が新しい法令を周知徹底させるため、ムラや町の目立つ場所に設置した掲示板のこと。
後ろの家はかつて名主だったのではなかろうか。
高札場というある種の威厳は、庭に干された女物の下着ですっかり地に落ちてしまっている。












諸の集落を過ぎて、諸上橋の手前に句碑がある。
しかし、まったく字は読めない。
そばに立っている柱を見て初めて芭蕉の句碑であることを知る。
「草臥れて宿かる頃や藤の花」。
「この句は貞亨5年(1688)、芭蕉が大和行脚の際、晩春の旅情を詠んだもので、句集「猿蓑」に収録されている。この句碑は、江戸か地元の俳句愛好家によって建てられたが、札所巡礼も残すところ29番だけとなり、疲れはしたがもう少しという安堵感を覚えるこの地点を選んでたてられたものと思われる。」
句碑の隣に立っている荒川村教育委員会の説明文には、こう書いてあった。



諸上橋から望む上流の渓谷。
険しい渓谷であることは一目瞭然である。
橋がなかった頃も、巡礼は川を渡った。
安永2年(1773)、久那村の名主から代官に提出された橋架設願いの文書が残されている。
「来年は総開帳の年で人通りが多くなる。それでなくても険しく、交通が困難であるのに、ますます渋滞が予想される。容易に通行させたいので橋を立てて欲しい。橋を渡る巡礼者からは一人1銭ずつ徴収することにしたい。」と言う内容であった。

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