「第二十三番 松風山 音楽寺 (臨済宗) 08.10.27

















汗をかき、ふうふう言いながら、休み休み上って観音堂にたどりついた。
「坂道を登るのが大変であればあるほど、頂上からの眺めは、その大変さに比例してすばらしくなる」。
と、言いたいのだが、最近は車で苦もなく来て、同じ絶景を見られるのだから嫌になってしまう。
荒川にかかる橋の橋脚の向こうに秩父市内、さらにその奥に武甲山。秩父盆地が一望できる絶景ポイントだ。








境内の片隅に「秩父困民党無名戦士の墓」がある。
事件後、処罰されたもの14000人。
うち死刑を宣告された者7人。
「われら秩父困民党暴徒と呼ばれ、暴動といわれることを拒否しない」という碑文には、潔さがある。
この潔さは、決起に先立って取り交わした軍律の精神にも貫かれていた。
「第一条 私に金品を略奪する者は斬」「第二条 女色を犯す者は斬」「第三条 酒宴を為したる者は斬」「第四条 私の遺恨を以って放火其他乱暴を為したる者は斬」。
更に付け加えれば、「困民党」というネーミングもいい。
それは彼らの生活の実態そのものであり、「困民党」を弾圧する側は図式的に悪鬼の如き存在にならざるを得ない。
悪鬼に「暴徒と呼ばれることを拒否しない」のである。
松韻と扁額にある鐘の音は、秩父の街中にも届くのだろうか。
明治17年(1884)11月2日、小鹿坂に集結した3000人の困民党は、この梵鐘を打ち鳴らして坂を駆け下り、秩父の町の金貸しの家に乱入した。














「音楽寺」という寺号は、松の梢を吹く風の音から生まれたのだという。
いわゆる音楽とは無縁なのだが、新曲をヒットさせたい音楽業界の人たちにとってすがりたい藁の如き存在となった。
正面舞台の端の掲示板には、新人、ベテラン歌手の新曲ポスターが、びっしり貼られている。

「音楽寺」の背後の小鹿坂峠には、13体のお地蔵さんが横一列に並んで、武甲山に相対している。
どの写真も桜の季節に撮影されている。
まるでそれが決りであるかのようだ。
そこで09年4月、桜のシーズンを見計らって再び現地を訪ねた。
石仏は「十三仏」と呼ばれ、秩父札所開設に関わる13人の権者(神仏、皇族、高僧)を指す。
秩父巡礼の縁起は通称「正徳縁起」と呼ばれるが、その概略は次の通り。
「仏勅により性空上人が花山法皇ら6人と東国に下る。
その途中、普門品(観音経)を空に放り投げると経巻は光を放って飛んでいった。
これを追って、一行が秩父小鹿坂まで来ると松の梢に普門品が光を放っていた。
この時、善光寺如来以下が現れて札所の制定と巡礼の開始とを宣告した」。
「その時虚空におんがく聞へ、善光寺の如来光明かくやくとして十方世界をかがやかし、六観音の像三十三身に現し、光を放って現れ給へば四方の草木、土石まで皆金色と変じ也。
(略)有難や観世音鬼門の街にはじめて安置し給へ我伴ひて巡礼すとのたまふ御声の音楽や」。
それは文暦元年(1234)甲午3月18日のことだったと縁起には記されている。















しかし、この日時も、元年は始まりの年として落ち着きが良く、「午」は観音の眷属であることから元年が午年に当たる「文暦」が選ばれ、さらに観音の縁日である18日が選ばれたものと見られている。
つまり全くの作り事なのだ。
十三権者の中には熊野権現などもいて、史実ではなく、絵空事であることを分からせるが、西国「第二十七番円教寺」を開山した性空上人の名前もあり、秩父札所が西国霊場との関わりの中で開設されたことを仄めかしている。
これを史実の中で捉えることも出来る。
秩父を領していた丹党中村一族は、承久の乱の後、「書写山円教寺」に近い播磨国三方西の地頭に任じられた。
「書写山円教寺」は西国札所の中でも有力寺院の一つで、「西の叡山」と呼ばれるほどであった。
中村氏は観音に深く帰依し、そのシステムを地元の秩父に持ち帰り、札所として開設したのではないかという推測である。
円教寺開山の祖、性空上人が十三権者の一人であるわけも、こう考えれば納得がゆくというものだ。

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